渋谷で生まれ育った生粋の都会っ子な50過ぎの新聞記者が長崎に引っ越してライターを続けながらアロハで稲作するルポです。
元は新聞に不定期で連載されてたのに大幅な加筆訂正をしてまとめたものだそう。
これ物っ凄く面白かった。図書館で借りてきたんだけど読んでる途中でアマゾンでポチったぐらい。
斜陽著しい出版業界でいつ仕事が無くなるか解らないけど自分は何があろうとライターを続けたい。
ライター仕事で稼げなくなったとしても取り敢えず米さえあれば飢え死にすることは無いから自分で米を作ろう。
って感じで東京から長崎の支社に自ら転勤して、毎朝1時間だけ田んぼ仕事をしながら普通に記者としての仕事を続けてるおっさんの体験記。
あくまでも「ライターとして活動する為」に自分が食べる分の米を作るのが目的で、それはたとえばライターじゃなくてミュージシャンでも作家でもとにかく「絶対に譲れない自分がやりたいこと」をやりながら生きたい人にも応用できる筈だ、と。
だからプロの農家なんか目指す気もないし朝の1時間しか農作業はしない、作業着は自分のスタイルであるアロハにサングラスにテンガロンを貫く。
近藤康太郎氏は元々音楽関係のコラムで知って結構好きだったライターで、本文中にも色んな歌詞や本からの引用が沢山あってそれも面白い。
ドタバタ素人農民日記が中心だけどタイトル通り資本主義どうのこうのもちゃんと書いてあって、それがまた私にでも理解できる内容で書かれてるから更に面白い。
資本主義を打倒したい訳でもない。ただ資本主義からちょっとだけはみ出しておいしいとこ取りしたい。
だから「おいしい資本主義」。
「正社員の地位にしがみついて、ブラックに限りなく近い企業なんかで、したくもない仕事をして、健康も、生きる悦びも、すり減らしていく。忙しすぎて、好きだった音楽も聴かなくなり、本も読まなくなり、映画も芝居も観なくなり、疲れて会社から帰って、見るのはテレビとスマホだけ。なぜなんだ? それって、突き詰めると、飢え死にするのがこわいから、なんではないか?
(中略)
逆に言えば、飢え死にさえしなければいいんでしょ? 人間、米さえありゃ、なかなか飢え死にはしやしない。
(中略)
農業がしたいわけじゃない。エコともロハスともスローライフとも、なんの関係もない。新しい生き方、というか、もう一つの生き方。ブラック化する社会にすりつぶされないで、それでも生きたい、生きていける、そういう選択肢を示したい(後略)」
1番響いたのはこの人が「生きるためだけに書きたくないことを書かされること、書きたいことを書かせてもらえないこと」が自分で自分を許せなくなる、って云ってることだった。
戦時中の文学者たちは国家や国策の為に要請された文章を書かされていた。名だたる文学者たちですら生きるためにプライドを売り渡してしまった。自分はそうなりたくない。
書きたくないものを書かされて書きたいことを禁じられるぐらいならライターである必要はない、と。
「創造物に対価を支払うという習慣をもたない人たちで、世界はじきに、埋め尽くされる。
そうしたときに、ではミュージシャンはミュージシャンであることをやめるだろうか。作家は作家であることを、画家は画家であることを、やめるのだろうか。
まあ、やめる人も多いのだろう。が、それはそれまでの人でしょう。銭カネじゃない。書かなければ、歌わなければ、描かなければ、生きていけないんだというのが、本物のアーティストだし、そうしたアーティストの表現以外、少なくとも私には、用がない」
本筋とはさほど関係無いんだけど、人はカネがなくても生きていけるのか?って話で「人類の歴史は三万年だ。音楽やダンスの歴史は、人類創成とほぼ同時。人は、音楽や踊りがなければ生きていけない」って言葉にもぐっときた。
前にコラムで同じこと書いてらしたけど。文字が無くても栄えた文化は沢山あるけど歌が無い文化は存在しないって。
本とレコードか無ければ生きられないって人だから余計に好感が持てる部分もあるな…
この資本主義社会にはもう成長の余地が無い、自分たちの親世代で当たり前だったことは今の若者には最早不可能である、って云うのが自分の立場的にも凄くリアルな話で痛い。
今は野原ひろしが相当な勝ち組な時代だもの(´−`)